探しても見つからない前髪
夢の中で、額にかかる前髪を払おうと手を上げると、指は何にも引っかからずに、なめらかな地肌の上をすべっていきます。慌てて後ろ頭やてっぺんに回した手も、そこにあるはずの髪に触れません。ハゲる夢には、心の中で見慣れた自分の姿と、知らないうちに変わり終えていた外見との隔たりに、ふいに触れてしまう戸惑いが表れます。
知らないうちに済んでいた移り変わりに、後から追い付いた覚えはあるでしょうか。録音で聞いた自分の声の低さや、久しぶりに会った人の驚いた顔のように、変わった日付の言えない事柄を、外から先に教えられる場面は暮らしのあちこちにあります。ハゲる夢で頭に手をやる場面には、人に教えられるより先に、自分の指の方が様変わりを見つけてしまう順番が描かれることがあります。
地肌に空気が触れる場面
- 頭頂部がハゲる - 頭のてっぺんだけが丸く地肌をのぞかせ、正面を向いている限り、自分の目には入りません。見えない所で始まった変わり目を、周りの方が先に知っているのではないかという落ち着かなさと結び付いています。
- 後頭部がハゲる - 後ろ頭に回した指の届く辺りだけ髪が消えていて、確かめる手立ては触れた感触しかありません。目の届かない場所の様子を、指の覚えだけで測ろうとする心の動きの形です。
- 頭がすっかりつるつるになる - 額から耳の後ろまで髪がなく、どこをなぞっても引っかかる所がありません。整える髪がひと筋も残らない頭には、見た目をどう作るかという毎朝の手間から、いきなり外された戸惑いが宿ります。
- 女性の自分がハゲる - 女性である自分の頭から髪が消え、持っていた髪留めの行き場がありません。結ぶ、留める、巻くという朝の段取りがまとめて取り上げられる場面には、決まった手順で整えてきた見た目がどこまで保てるかという問いが重なります。
- 家族がハゲる - 帰省先で会った父や兄の頭から髪がすっかり消えているのに、本人は少しも気にしていません。こちらだけがうろたえる構図は、身近な人の移り変わりを受け止める支度が、こちらの側でまだ整っていない時の心持ちです。
- 鏡でハゲに気付く - 通りすがりの店の鏡に髪のない頭が映り、それが自分だとはすぐに分かりません。見知らぬ通行人を眺めるようなその一瞬の距離は、髪を失った頭を、まだ自分のものとして引き受けかねている心の位置を示しています。
- 帽子で隠す - 髪のない頭を見られまいと帽子を深くかぶり、風に飛ばされないよう、つばを押さえて歩きます。隠すことに気を取られて他に手が回らなくなる筋書きには、移り変わりを受け入れるまでの時間を、隠す手間で引き延ばしている様子がうかがえます。
- 自分で頭を剃る - 残っていた髪を自分でバリカンにかけ、最後は剃刀で一筋も残しません。無くなりかけた物を、無くされる前に自分から手放す筋書きには、変わり目の決め手をこちらの側へ取り戻そうとする動きがのぞきます。
- 人に言われて気付く - 知り合いに頭のことを言われて初めて、髪が無くなっていることを知ります。様変わりを最初に口にしたのが他人だったという順番は、自分の見た目の確かめ方を人の言葉に預けている時の心もとなさを映した場面です。
- ハゲた頭に髪が生えてくる - 地肌の出た頭に短い産毛がまばらに生え始め、なぞると、ざらりとした感触が返ってきます。毛の色や硬さが前と違う夢では、元の頭へ戻るより、新しく育つものとして移り変わりを受け止め直す動きが描かれます。
髪はいつ消えていたのか
ハゲる夢の頭は、夢が始まった時にはもう髪をなくしています。束になって抜ける髪を手に受ける不安は髪が抜ける夢の側で読まれ、切る、伸ばす、染めるといった手入れの選び方は髪の夢で読み分けられます。ハゲる夢に置かれているのは、減っていく途中の焦りを通り越した先の、手入れのしようがない頭です。
鏡をのぞいて初めて頭の様子を知る場面は、鏡の夢と同じく、映った姿を自分と認めるまでの間を含みます。ハゲる夢では、鏡のない所でも、額に触れた指や頭の上を抜ける空気が、変わり目を伝えてきます。
どうぞと勧められた席
ハゲる夢の時期には、変わる出来事そのものはもう済んでいて、それを自分の姿として受け取る支度の方が、後ろに取り残されています。四十代の半ばを過ぎた人が、混み合う朝の車両で、すぐ前に座っていた若い人にさっと立ち上がられ、どうぞと席を示されます。その人は、それが自分に向けられた言葉だとは、すぐには思い至りません。
断るのも妙に思えて礼を言って座ると、さっきまで同じ高さにあった乗客たちの顔が、急に見上げる位置に並びます。席を譲った若い人は、何事もなかったように連結部を抜けて、隣の車両の扉の内側に立ちます。
こうありたい自分とこうあるべき自分
心理学者のエドワード・トーリー・ヒギンズは、1987 年の論文「Self-discrepancy: A theory relating self and affect」で、実際の自分だと思っている像と、こうありたいと願う自分や、こうあるべきだと感じる自分とのずれを、嫌な気分の種類に結び付けました。願う自分とのずれは失望や不満のような落ち込みに、あるべき自分とのずれは恐れや落ち着かなさのような焦りに通じるというのが、自己不一致理論 (self-discrepancy theory) の骨組みです。気分の沈み方の違いを説き分けるために唱えられた自己不一致理論を、自分についての質問票への答えで測る枠組みのまま、ハゲる夢の地図にすると、夢の中の頭に向かう気持ちは二つの方角に分かれます。
髪の戻らない頭を前に気持ちが沈んでいく夢は、こうありたかった自分との隔たりの方角に寄り、見られる前に隠そうと急ぐ夢は、人からこう見られるべきだという務めの方角に寄っています。もっとも、ジューン・タングニーらが 1998 年の論文「Are shame and guilt related to distinct self-discrepancies? A test of Higgins's (1987) hypotheses」で確かめた範囲では、ずれの種類と気分の種類の一対一の結び付きは見いだされませんでした。夢の中の二つの方角も、くっきりした境目にはならず、気持ちの傾きを見るおおよその目安にとどまります。
後ろと横に生え続ける髪
男性型の薄毛は、こめかみの上と頭のてっぺんから始まり、進んでも頭の横と後ろにはぐるりと髪の縁が残ります。この縁はヒポクラテスの花冠 (Hippocratic wreath) とも呼ばれ、頭全体から髪が消えるところまで進むことはまれです。女性型の薄毛は、額の生え際を保ちながら頭全体の髪の密度が下がる形を取り、髪をすべて失うまでに至ることは、やはりまれです。
後ろ頭まですっかりなめらかになるハゲる夢の頭は、体がふつう行き着く輪郭を越えて描かれた、心の側の姿です。女性が自分のハゲる夢を見る時も、体の上ではまれな頭を、夢の方が選び取っています。髪の行く末を言い当てる絵には向かないその頭には、隠しようのない形を一度だけ思い描いてみようとする心の動きが寄り添っています。
髪に覆われていた肌
地肌とは、髪の生えている頭の皮膚のことで、ふだんは髪に覆われて、日差しや冷たい空気をじかには受けません。ハゲる夢の中では、覆いを失ったその肌が、周りの空気の温度をすぐに伝えてきます。目覚めた後に見た目の記憶はおぼろでも、頭の上のひんやりした感じだけは確かに思い出せる夢があります。
その冷えが伝えるのは、様変わりを見た目として認めるより先に、肌の上で受け入れ始めている体の側の手順です。風に運ばれてきた綿毛が、夢の中のなめらかな頭のてっぺんに降り、つかまる髪の無いまま耳の上にひととき乗ってから、肩へ落ちます。